受け入れる(1)
言葉で説明することは、難しい。
受け入れた状態というのは、本当に自然で当たり前の状態。
だから、自分では意識していないことが多いと思う。


 ”受け入れることだ”と無理に言い聞かせて見たけど、違ってた。
我慢ではないし、無理な同意や同調でもない。もっと、自然なものだ。
あるがままをそのまま認めること。  

受け入れる(2)
先行く仲間の経験を聞いていると、素晴らしい経験みたいでした。
でも、私にはどうすれば受け入れることができるのかわかりませんでした。
正確には、受け入れられない自分にさえ気付いていませんでした。
私にとって、最初に思った「受け入れる」は我慢することでした。
ですから、それは苦痛な作業でした、とっても。
けれど、そういった時期を通る人が多いように思えます。

無理して我慢して、受け入れようとしているうちに、
ある日、自然にいきている自分を発見しました。


これが、受け入れるということだったのでしょう。
AAのミーティングにも、飲むのが怖くて
脅迫的な気持ちで通っていました。

これは、我慢のミーティング通いです。
でも、このおかげで助かり今ではこの事にも感謝しています。
時間が過ぎて自然とミーティングに通えるようになっていました。


その時、私は、AAのミーティングに行くことを受け入れたのでしょう。
やがて、我慢の時期が短くなっていき、受け入れることが
きっとスムーズになっていけることを、今は信じられます。

受け入れる(3)
ほんとうに、これは最近感じている疑問です。

私はほんとうに私が出会う出来事を、 それが自分以外の人のことであろうと、
たんなる出来事であろうと 実際の事柄どおりに感じてみようとしているのかと。

ミーティングに通い始めの頃 私は 、
「私には他人の立場にたって考えるなどということはできません。」
と、話していました。
「私はわたしでしかなく、その私が感じてみようとする相手の立場は
その時の私が考える相手の立場で 
本来その人が感じている現実かどうか私にはわからないからです。」

いつしか、そんな私でも ミーティングで自分以外の人の話「その人の経験」を
『その人の経験・感じ方・行動をすべて理解できるのか。』ということは別にして
自然に聞いていられるようになってきました。

それは、私と その人 または ある出来事を比較したり
比べたりする 必要はないのだ。と私にも感じられはじめたからです。

事実だけ憶測のない現実だけを見ていけばいいのだ。と私は感じ始めました。

でも、最近おもう疑問は、私は現状、安全な線(ライン)を
保とうとしているのではないかと、そんな垣根をつくっているのではないかと、
「なぜ?」という考えや行動を無意識のうちに封じ込めているのではないかと。

その時々、 私にとって受けいれがたいものは必ず存在するでしょう。
”受けいれてみよう”とすることと、
”まず、受けいれてみることだ。”は、私にとってはまったくちがう事なのです。
 

まず、受けいれてみて、私はそれを私自身にほんとうの意味で消化できるでしょうか。

なぜ、受けいれがたいのか、なぜ自分が反発するのかを 一時的にでもほっておくのは、
自分自身をみつめない、あるいはもっとこわいのは他人の前に今の自分自身の中身を

さらけ出さないための『隠れ蓑』ではないのかと、最近おもいはじめました。

すべてを、ありのままに受けいれるとは、やはり いまの自分自身を

ありのままにうけいれることでしかないのではないかとおもいます。

 
どうしてなのか、ただ々酒を飲んでいたかった、

それがたんなる逃げでしかないとわかっていたとしても

『実際はこれっぽちもそれが逃げだなどと、考えたことはなかったけれど!』

酒がうまいなんて、もうこれっぽちも思えなかったのに、

そして、どうしても酒を手に入れるために そのためなら

何でもしようとした自分が(実際にしてしまった!)、 まったく反対のほうに歩みだした。

ミーティングの時間と仲間の話が 自分のなかのものをすこしづつひきだしてくれた。

ほんとうに自分に正直でありさえすれば、まわりにおこる出来事も

他の人のことも正直に受けとめてやっていける。

私は、なにか特別なものを受けいれるために、またはそのような方法を学ぶために

ミーティングにやって来るのではなく、自分自身を まぁ!おおげさに言えば、

「正気の自分」と向きあうためにミーティングにくるのです。

 
「ゴメンナサイ、話ガ ナガスギマシタ。」