正気と狂気(1)
お酒を飲んでやっていたことは、まさしく狂っている状態だった。
飲んでいる時は、このことすらはっきりわかっていなかった。
 飲まなければ、まともないい人間だと思っていた。
AAの人たちが飲まないでも狂気があるという、何なんだ!……から始まった。
 
確かにお酒を飲まなくても、酔いはあることを知った……。
自分で、狂気に気がつけるのだろうかと、長い間考えていた。
たぶん、自分では気づけないものだとしか思えなかった。
ある日、今は正気だと思えた時があった。

その時、私の中は何の考えもなく空っぽだった。
ざわめきはなく、迷いもなく、いらいらも興奮もなかった。
誰に教えられた訳でもなく、間違いなく今は正気だという確信がそこにあった。
これは、私がAAに来て、何年か経った時に初めて経験したことだった。

ということは、それまでは、殆ど狂気の中にいたということになるのかな。
正気と狂気(2)

AAに来たばかりの頃、このテーマは嫌な気分にさせられました。
仲間が自分のことを「狂気」だと話しているのを聞いて、とっても。
それに、自分について、正気か狂気かなんて考えたこともありませんでした。

一体何が正気で、何が狂気なのか・・・・ずっとずっと霧の中でした。
唯一はっきりわかるのは、お酒を飲んでいた頃の私は正気とは言えないということだけ。
最初の頃は、まともな行動をする人が「正気」の人で、
まともでない行動をする人が「狂気」の人だと思いました。
大きくは違っていないのかもしれませんが、この「まともな」がくせものです。
何しろ、それぞれ人によって基準が違うのですから。

今、私はこんなふうに思うのです。
自分をきちんと見ながら生きている状態が「正気」なのではないかと。
自分が今何を考えて、何を感じて、何をしようとしているのかなどを
きちんと知った上で生きている状態です。

それに対して「狂気」は、自分が見えていない状態ではないでしょうか。
例え、まともそうに見える行動をしていたにしても、
自分がしていることがわかっていなければ、「狂気」なのだと思います。
一見、まともに見えても、やがてそのおかしさは見えてくるでしょう。

反対に、一見おかしく見えたとしても、「正気」の時もあると思います。
「忠臣蔵の大石内蔵助」が、仇討ちの意思がないと見せかけるために、
京都で遊興し続け、「狂った」と思われていました。
あれは、内蔵助が「正気」の心で「狂気」の振りをしていたのですよね。

自分が「正気」か「狂気」かは、自分の感覚が教えてくれます。
正気は私に、自信、信頼、愛、忍耐、感謝などの好ましい特性を感じさせます。
狂気は私に、妬み、憎しみ、批判、放棄、支配、依存などの感覚を起こします。
自分をこうした観点から見直すと、
飲まなくなった今でも、いかに「狂気」が大きいのかがよくわかります。

でも、この頃、「狂気」という言葉に抵抗を感じなくなりました。
自分自身がまだまだ狂気の中にいることを受け入れられたのでしょう。

正気って、何だか堅苦しく生きることのように思っていました。
でも、違うのだと思います。
私をより豊かに、幸せにする大きな道具に思えます。
だから今、私は少しでも、正気へ向かいたいと願っています。
そして自分の狂気を認めることが、本当に正気へ向かう第一歩なのですね。